前置き
「コーヒーを通して生まれたありがとう」エピソードを読者様より募集し先日結果を発表いたしました!
この3連休ではこれらに沿ったテーマで、小説家「未上夕二」氏による小説を3本立てでお届けいたします。それでは早速、お昼のコーヒーブレイクと共にほっと心が温まるお話をどうぞ~☕
読者によるコーヒーを通して生まれたありがとうエピソードの結果発表記事:https://coffee-station.jp/archives/23226
本編
未上夕二
いいかおり──。
カウンターの向こうから漂ってくる香ばしい匂いに、芳江は思わずため息をついた。ケトルから注がれるお湯を受け、ドリッパーのコーヒー粉はふわりと膨らみ、豊かに香る。
小ぢんまりとして古ぼけてはいるが落ち着いた店の雰囲気とコーヒーのかおりに、両肩に張りついていた緊張が解けていく。
「さてと……」
鞄から取り出したテキストをカウンターに広げた芳江はボールペンを握る。
勤め先の病院で異動があり、小児科から呼吸器内科に移ってひと月が経つ。看護師としてのキャリアは十分にあるが、科が変われば必要とされる知識もやり方も変わる。今だって休日を利用して講習を受けてきた帰りなのだ。新しい科に馴染むまでは新人同然に気の抜けない日々が続く。緊張のせいか些細なミスが続いている。しっかりしないと。
ふと顔をあげると、視線はコーヒーを淹れている目の前の女性スタッフに留まる。
新人さん──?
そう感じるのは彼女の肩に力が入っているように見えるからだ。この間、息子の真也が夫が生前愛用していたドリッパーで初めて芳江のためにコーヒーを淹れてくれた。ケトルのお湯をコーヒー粉に落とす息子の背中も同じように強張っていたのを思い出し、芳江は頬を緩ませた。
彼女は膨らんだコーヒーの表面に真剣な眼差しを向けている。その隣ではこの店のマスターなのだろう、白髪の老人がエスプレッソを淹れながら、横目でそっと彼女の様子を見守っている。その視線に覚えがある。新しい場所で働いている芳江に向けられている同僚たちの視線だ。大丈夫かな、ちゃんとできているのかなと心配する──。
きっと彼女もお客様にコーヒーを提供し始めて間もないのだろう。先輩看護師としての立場も経験している芳江にはマスターの気持ちもわかる。
慎重な手つきでドリッパーを外すと竹べらでサーバーのコーヒーをかき混ぜ、カップに注ぐ。
「お待たせいたしました」
芳江の前にそっとカップを置くと彼女は静かに言った。ありがとうと頭を下げ、芳江はカップを手に取り口をつける。
「おいしい──」
思わず漏れた声に気恥ずかしくなって顔をあげると、慌てたように彼女が視線を逸らす。芳江の反応が心配で様子を窺っていたのだろう、紅潮した頬がわずかにほころびている。
「おいしいです、とっても」
芳江は彼女をまっすぐに見て言った。おせっかいかなとも思ったのだけど、どうしても言っておきたかったのは同じような境遇にいる彼女への共感からだ。
新しいことにチャレンジしているのだから、この先、彼女は多くの失敗を重ねて落ち込むこともあるだろう。でもきっと大丈夫。一生懸命にコーヒーを淹れ、お客様の反応に素直に喜ぶことのできるあなたなら。
だから──。
「ありがとうございます」
そう言って彼女は上気した顔で笑う。その表情に、その言葉に勇気づけられる。
頑張ろうね。
芳江はもうひと口コーヒーを飲む。
まろやかで深みのある味が口の中に広がっていった。
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■未上夕二(みかみ・ゆうじ)氏について
小説家、鍼灸師
1973年、大阪府生まれ。駒澤大学文学部英米文学科卒業。2014年に『心中おサトリ申し上げます』で第5回野性時代フロンティア文学賞受賞し、デビュー。会社員を経て、鍼灸師となり、鍼灸治療院を経営。著書に『お役に立ちます! 二級建築士 楠さくらのハッピーリフォーム』『鍼灸日和』がある。